画面

画面について考える。

◉画面はトリミングされたもの
画面には縁がある。終りがある。
意図したかどうかに関わらず、
トリミングした人物の作為性がみえる。
トリミングすることによって、
紙面やディスプレイなどに乗る。
トリミングされた内側が画面外とは独立した
ひとつの世界観を構成することになる。
書籍にしても、テレビにしても、映画にしてもそうだ。
見る側が画面の内側と外側の両方に目を向けても、
トリミングした人が画面の外側を意識して構成したとしても、
そのトリミングは境界になり、内外を分かつ。

◉見ることと画面とは違う
見ることと画面とは違う。
第一に、ものを見るとき目に入るもの意識に入るものは違う。
目に入っても意識に入るものもあるし、
目に入っていないけれど脳が勝手に作る像もある。
第二に、見ている時、見えるものの端っこは実に曖昧だ。
見ることはその端を明確に規定しない。
目玉を動かせば、首を回せば、体をひねれば、
見えていなかったところを簡単に見ることができる。
画面の内外のように世界が明確に分離しない。
世界の分離はあくまで段階的だ。
画面は見せることであり、見ることではない。
見ることと、画面を構成するという体験は別物と考えたほうがいい。
絵描きや写真家などは、画面を構成するように見たりするだろうが。

◉画面的な見方
カメラを通して見ることは、画面を作るように見ることだ。
トリミングされることで、誰かに見せるような見方になる。
カメラで撮影されたものはひとつの世界観を持つ画面になる。
自分で撮った写真を見るときも、画面の境界で世界観が切り替わっているはずだ。
カメラを通してものを見ることは、誰かに見せるような目でものを見ること。
写真を撮るということは、見ることとは別物なのだ。
それならば、デジカメ、ケータイのカメラなどで、
見ることの意味も変わってきているはずである。
わかりやすい所で言えば、記念撮影や写メールで、
あるときを写真に記録し、誰かに見せるとき、
目の前のものは見ないでカメラの画面しか見ていなかったりする。
それは一人称的にはものを見ていないということになる。
見ることがカメラとケータイの出現によって変容している。

◉見ることと画面
当然、画面を構成することと両の目で見ることに良し悪しなど無い。
ただ、画面構成的に見すぎないほうがいいとは思っている。
見るということはもっと多くのことを孕んでいる。
目で見たものに名前をつけ、言葉を作った。
聞こえた音を絵に表し、見えないものを見ようとした。
目には見えない小さなものを見る顕微鏡があり、
目には見えない遠いものをみる望遠鏡がある。
いずれも見方を変容することをしているが、その始まりは両の目で見ることなのだ。
カメラを通してものを見ることは、両の目で見ることと並行することで、
その世界観を広げることができるものだと、ぼくは思っている。

つってね。

  1. 2013/08/02(金) 14:16:46|
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このブログ

急になんの告知もせずに、ブログのデザインを少々変更しました。

ただ僕自身、知り合いを含め誰がこのブログを見ているのか知らず、
書いている内容は自分の独り言に近い言葉なので、
ブロクのデザインも、やはり好きに変えてしまいます。
見やすいのが好みなので見やすくなるように変更しましたが、
見てもらいやすくするために見やすくしたんじゃなくて、
あくまでそういうのが好きだったら、もしくはそういう気分だったか
そういった見た目に変えたという話でしかないです。

そんな我儘ブログ。記事の内容を自分本位で進めるのなら、
見た目だってそうで良い。
誰が読んでいるのかも、どの記事が読まれているのかもわからないから、
どんなことが期待されるのか、予想もつかない。
なにより興味が無い。

いつか吉本隆明氏のおっしゃっていた、
「自由・平等・無価値」という言葉が近いかな、
そんなブログです。

堪忍してください。  

  1. 2013/08/02(金) 13:21:41|
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