たとえば、狂気について

ある集団の、多くの人が狂っているように見えるとき、
その集団に自分が属していたのなら、恐らく自分もどこか狂っているのだろう。
自分の感じた分だけ。

狂っているように思うことに対する手段を持ってみても、
その狂気に対してのみ有効なその手段に自分が慣れるということは、
その狂気のない世界で自分が狂うということだろうから。

僕は自分のことを、おかしいと思っている。
普通ふるまっても社会に普通には馴染めないようだし、がんばってみたところで歪みが生じる。
社会に馴染めないのだ。
そう、思っていたが、近ごろ、少しずつ、そうでもないらしいと感じてきた。
みな、それぞれに、狂気を抱えているのだ。
僕ほどあからさまでなかっただけで、どこかしら、狂っているように見える。
みんなそうだとしたら、概念はひっくり返り、こういう狂い方ではだれも狂っていないことになる。
表面のコーティングが上手にできたかどうかの問題だ。(上手にコーティングできることは大切だと思う)

自分の狂気を自覚すると、辛いのは辛いが、いろいろと対処できることもある。
狂気そのものはそう簡単には消えてくれないかもしれないが(あるいは簡単に消えるのかもしれない)、
それがどこからわき出し、どういったもので、どういった過去が救いになったかが自覚できるのだ。
どうしようもないなりに、どうにかしていけるのだ。ちゃんともがけるのは有難いことだ。
もがき方を教えてくれた人たちに、感謝を思う。

こういう文章に対して、どうしたの?とかだいじょうぶ?とかいうリアクションをよく見かけた。
だから、平常時からそういうことを思っていた僕は、どうかしているし、大丈夫じゃないのだろうな。
それでも僕にとっては、どうってことないし(どうしようもなくても人に言ったところでどうにもならないと思ってしまう)、
かつてより救われている感もあるから大丈夫なのだろう。

そんなことを思う。こういうことを、誰にあてるでもなく文章にすることで救われようとする。
こうやって文章をまともに書けているときは、たいてい問題がないというか、むしろ良好なときなので、
どうぞ、お気遣いなく。

それでは。

  1. 2011/03/27(日) 23:52:21|
  2. 未分類|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント:0

谷川俊太郎『これが私の優しさです』

谷川俊太郎さんの詩、『これが私の優しさです』

いまこそ、このうたを。

窓の外の若葉について考えていいですか
そのむこうの青空について考えても?
永遠と虚無について考えてもいいですか
あなたが死にかけているときに

あなたが死にかけているときに
あなたについて考えないでいいですか
あなたから遠く遠くはなれて
生きている恋人のことを考えても?

それがあなたを考えることにつながる
とそう信じてもいいですか
それほど強くなっていいですか
あなたのおかげで

強くなるんだ。

  1. 2011/03/27(日) 23:15:05|
  2. 未分類|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント:0

聞きたいのは、あなたの知識じゃなくて、あなたの考え、あなた自身のことです。

  1. 2011/03/27(日) 22:59:23|
  2. 未分類|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント:0

考える

知りたいのはそのことではないのだ

僕が手を伸ばした

君の影が小さくなりかけている

言葉を使いすぎた

信じているさ

だからもう何も話さなくていい

それが僕に出来ることの全て

信じているさ

こんな事なんかすぐに忘れられる

空気公団の『融』の歌詞。
僕が言葉を使いすぎて、なんか考えたり行ったりが急いてしまうようなとき、このうた歌を思い出したりする。

うたは、ちゃんと息を吸わないとうたえないし、急いてしまうとリズムが崩れるんだと思う。
うたに救われたりするのは、そういうところから来ているのかもしれない。  

  1. 2011/03/27(日) 09:59:53|
  2. 未分類|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント:0

ブログ開設(引っ越しはしてません)

ついさっき、日記ブログ開設。

じぶん の じかん

自分でやろうと思ってやったことを、できるだけ具体的に、簡潔に、明確に、残したいと思って。
毎日更新を目標にします。

書いていることが、すぐに抽象的になって、閉じこもってしまって、嫌だなぁと思うことがあったから。

またそのうち、新しいブログについては、かこうと思います。

  1. 2011/03/23(水) 03:02:37|
  2. 未分類|
  3. トラックバック(-)|
  4. コメント:0
次のページ