記憶

記憶

ふと、昔のことを思い出す。
思い出したとき、思い出せていないたくさんのことがあることに気付く。
僕はどれほどのことを思い出せずにいるのだろう。  
記憶が一度に思い起こされたりしたら、意識はそれに耐えられないだろうけれど。

ほとんどのことを忘れているよなぁ。
しかも記憶の多くは言語的な形でばかり抽出されたりしてさ。
思い出すっていうこと自体が、意識の所作なのかもしれない。

それでいて、何かの体験の最中にいるとき、その状況の中にいるつもりなのに、
過去の記憶に重ねながら、自分のいる状況を体験して足りする。
今にいながら、今を見ているつもりで、過去を見る。

今を見るのは過去を見ているのだとしたら、今は未来のためにあることになるのか。
ひとつ、重大な体験をすると、全ての未来が変わったりもするのだろう。
人の脳は、何かと連想したがるらしい。
だとしたら、今の目の前の現実は、過去と繋がっていくのだろうか。  

僕は昔のことをあまりおぼえていない。
何かのきっかけがないと、過去のことはほとんど思い出さない。
それにしても、僕が思い出すようなやり方で、他の人もものを思い出しているのだろうか。
僕がものをおぼえる方法は人とはちょっと違うかもしれないなぁって、
人と話したり、見てたりして思うけれど、(みんなそれぞれのやり方があるでしょう)
ものを思い出すやり方は、外から見てても、よくわからないなぁ。
思い出した自分の記憶をどう感じるかも、違うんだろうな。  
ただ懐かしいというだけの思い出し方すらある。

一秒前の体験すら、そのままでは思い出せないのに、
いろいろなことをおぼえているつもりになる。
そもそも、神経のインプットしているもののうちのどれほどを頭の中で処理するのだろう。
そこから意識にまであがってくるものはさらに少ない。
だけれど、意識ばかりが記憶に繋がるわけではなさそうで、
何かを思い出すときの引き金になるのは、当時ほとんど意識していないことだったりもする。
今、受けた刺激が、過去に受けた刺激と繋がり、思い出される。
思い出されることによって、記憶されていたことが証明される。
記憶の痕跡は、一見、見えないことが多いから。

人は過去の記憶を封じたりするらしい。
僕も自分の記憶を封じているのだろうが、それは自分ではわかりようがない。
小さい頃のことをあまり覚えていないのは、そのためだろうか。
でも、過去の体験を記憶しておくことにあまり興味を向けてこなかっただけのようにも思う。
それでいて、体験の構造を抽出して記憶するようなことは、好きだったのかもしれない。
体験の中のほんの一部分だけ抽出して、普遍性と呼ぶような作業。

僕はものを覚えるとき、文章を読むという行為よりも絵を眺めるという行為に近い形で記憶していると思う。
要素の順序を覚えるのでなくて、要素の配置を覚えているというか。
体験に対して枠をつけ、その中での要素を、ぼんやりと頭に描く。要素と要素の関係を意識しながら。
自分の意識したことが正しいかを確認しながら、対象を眺めていく。
要素は合っているか。関係は合っているか。  

たぶん、知らず知らずのうちにそういう方法をとってきた。
だからものを思い出すときも、ひとつの要素、もしくはひとつの関係を思い出せば、
そこから連想が広がるし、抽象的になっている分、似ているものも見いだしやすかったりするんじゃないかな。

だけれど、刺激に対して何を思い出すかを、僕は選べない。
思い出したことは、思い出したから思い出したのだ。
何かを思い出そうとすること自体が、もうある程度思い出されているからできることだろう。
思い出すものは選べない。
それでも何かを思い出す。他にも思い出せたものは合っただろうに、どうしてそれが選ばれたのだろう。
何によって、思い出されるものは決まってるのかなぁ。
もしかしたら、単に教育と習慣によってかもしれない。

それにしても、思い出すってすごいことだよなぁ。
何を思い出したらいいかわからないからを思い出そうとして、
それなのにどうにか思い出すことができて、
しかも思い出したものが思い出したかったものだとわかる。

なんだよ、その超能力はって思えるほど。
どうやってそれがなされているか考えたってわからないもの。

考えてみれば、記憶というものについて話をしたとき、多くの場合、
お受験みたいな意味合いで話していたと思う。    
記憶力がいいの、うらやましーとか、そういう話。

でも、考えてみたら、そもそも記憶ってこと自体がこんなに不可思議だったとはね。

結局、記憶とはどんなものかなんて、やっぱりわからなかったけれど、
もっと意識的に体験するためのきっかけを、ちょっとくらい考えられたかな。というわけで、おしまい。

  1. 2011/02/26(土) 23:32:06|
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デザイン

グラフィックデザインとか、ビジュアルデザインとか、ビジュアルエディティングとか、
そういったものを便宜上デザインと呼んで、これからの文章を書きます。

デザインは、無意識に働きかけるところがある。
だから、感覚的だと言われたりする。
デザインを見る人は、 言葉でないものを読み取る。
言葉でない情報を読み取ってもらうために、デザインする。
デザイナーが文字を並べるのは、そういうことだ。

多くの人々は、そういうことを、無意識に読み取る。
自分が情報を読み取っていることに気付かずに、読み取る。
意味の前の、印象だ。言語化される以前の情報。

だからそれを意識していない人は、デザインを言葉にできない。
言葉にできないと、証明することが評価されることであるような今の世の中では、 評価されにくい。
何かを評価しようとしているような人々には、なかなかわかってもらえない。

それなら、誰がわかってくれるか。
デザインでも何でも、それを使って遊ぶ人。
そういう人は、面白いデザインなら面白がって、
退屈なデザインなら興味を持たない。

デザイナーが作ってる世界ってね、そういうのだから、認められづらいんです。
人が普段、意識していない所を作り込もうとしているのだから。
そういうことしたって、細かいこと言うなよって片付けられてしまいやすい。悲しいね。

でもきっと、細かいよって言われたからってデザイナーが作り込むことをやめたら、
世の中は、つまらないもの、表面的なものになっていくと思う。  
人の意識できる範囲ばっかりじゃ、退屈しちゃうよ。

誰かが作ったもの見るときってさ、みんな作った人とは違う目でみんな見てるんだよ、やっぱり。
人は他人の意図に沿って生きているわけじゃないからね。
ひとりの人間の意識できる所で見える世界って、狭いと思います。
だから人一人の意識なんてつまんないっていうんじゃなくてさ、
いろんな人のいろんな意識が、いろんな視点があるんだよなーって。

ならデザインって何かな。
デザインは、誰かの視点をいろんな人にわかってもらうようなものも作れたりもする。
誰かの視点ってさ、押し付けられてても嫌なわけです。
ああしなさい、こうしなさいって言ってもダメ。
でもさ、その人の世界観を表せたら、その人の見えるものを表せたら、
そんな難問に挑んでいるのがデザインだったりすると思う。
言っていることを伝えるんじゃなくて、伝えたいことを伝えるために、デザインって役に立てる。
そのために、伝えたいことは何かって、考えなくちゃいけなんだけどね。
自分が本当に思っているようなことを、誰かに本当にわかってもらいたいと思ったときって、
自分の話をしているのに、どこか相手の放つメッセージにも敏感になったりする。
伝えたいことを伝えるのって、本当に難しいよね。  
そういうデザインをするときには、話をじっくり聞いて、気持ちも伝えるところから始まるとおもう。   

デザインって、そういうことができるものだと、僕は思っています。
デザイナーはそうしなくちゃいけないとか、そうでなくてはいけないってことではないです。
デザインっていうのを媒体に社会と繋がりを持つときに、そういう方法もあるってこと。
難しいし、ぼくだってほとんど出来てないけれど、
そういうことができるものだよなぁってことは、わりと確信的に妄信しています。

デザインっていうものに触れることがある人に、そういうことを、ちょっと知ってもらいたいよ。
説明的じゃないけれど、いろいろなものを形作っているデザインのことを。
僕にとっての真っ当な考え方をしたら、デザインとはそういうものだって思えて、
だからデザインが好きだってところもあります。
そういうことが好きなのだから、ま、デザインじゃなくてもそういうことがあるならよかったりもする。実は。

デザインのことを、いろんなひとに、もちょっと、ふつうに知ってもらえたらなぁ。

僕はこれから、そのために、いろんなことを試してみなくちゃ。
デザインって、むずかしいねぇ。

  1. 2011/02/26(土) 00:37:47|
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死について。

ちかごろ、死について考えることが、なんだか多い。
本当に、よくわからない。全然わからないんだけどね。
死を考えるという行為によって、生きることとか、他の何かについて考えているのかもしれない。

僕は、いつ、どんな風に死ぬんだろう。
死ぬ前には、体はどんな風に苦しむんだろう。
苦しみの先に、死を感じるのだろうか。
苦しみから、死ぬのが怖いと感じるだろうか。
苦しみから、死ぬのは救いだと感じるのだろうか。

死ぬのが怖い、の前に、苦しむことが怖い。
たとえば僕が、海に溺れて死ぬとして、
死んでいくことの前に、息が出来ずにもがいていることの苦しみへの恐怖がある。
僕の口から出る、「死」という言葉に欠けているものに、そういうところがある。

もしも僕がこれから死ぬのなら、
悲しんでもらえないのは悲しいけれど、悲しんでほしいわけでもないなぁ。
ただ、あまり惜しまれながら死にたくもないなぁ。
「死んだのは悲しいけど、あいつが死んだのは仕方がねえよ」なんて言われるくらいがちょうどいいかな。

そういえば、僕が死んでも、僕が死んだことを知ることのない人たちが入る。
偶然のように知り合った人たちには、僕が死んでも僕が死んだことが伝わる経路がない。
たとえば、もしこのブログを読んでくれる人の中に、僕と会ったこともないような人がいたら、
このブログの更新が止まったとして、僕の生死に関わらず、僕との関わりは途切れるのだ。

死、ということから遡って、自分の知り合いを考えてみると、ネット上で知り合うことは、
僕の死にはたどり着かない人がたくさんいるのだろうなと思う。

関係って何だろう。死って何だろう。死んだことを知るってどういうことだろう。
圧倒的な何かで、現実性としての繋がりも、可能性としての繋がりも断たれてしまう。
悲しいなんて言葉では到底言い表せるはずもなく、ただ他により当てはまる言葉も知らず、
そういったものを追求する気も起こらず、でも誰かに気持ちは吐露したくて、悲しいなんて言う。

死んだっていい。そんな言い方がある。
それはそもそも、自分の一部分が死であるようなことをイメージしていない発言だと思う。
いつか死ぬのだ。
僕らは朝起きるときに、起きて一日いろいろしちゃうと眠くなっちゃうけど、
眠くなっちゃってもいいから起きる、だなんて考えもしない。
自分の一部分が眠ることだから。
どうしたって、そういうものだもの。
死も、どうやらそういうものらしいけれど、体験的には本当に全然わからない。

僕が死んだら、どうなるだろう。
何か、変わるだろうか。何にも変わらないんじゃないかな。
僕ともっと話したかった、なんて心から思ってくる人はいないかもなぁ。
生きている僕に、幾分かの価値はあり得ても、
僕が死んでもまだ残る価値が、イメージできない。
死によってを計れるほどの生の価値を、僕は持ち合わせていないらしい。
僕は何も成し遂げていない人間なのだ。

そういえば近ごろ、年齢のことをイメージしてみて、25歳になる自分をイメージできなくて、驚いた。
僕の存在は、その年齢では許されないだろうと、なんとなく思ってしまう。存在の賞味期限切れ。
精神の形は持ちこたえられるだろうか

しかし体は、死へと向かっていることを実感する。
数年前までのように、何も気にせぬままに体調もよく、とはいかない。
身体の変化を感じる。身体はこんなにも変わっていくのに、頭の中はあんまりにも変わらない。

死を考える前に、僕は十分に生きてすらいないんじゃないか、なんて思う。
それでも僕は、生きていることが好きなの?  

僕には、自分に対して、こんな自分、殺してやりたいなんていう感情がある。
自殺とは、自らを『殺す』と書くんだね。とても積極的じゃないか。
こんな腑抜け野郎、殺してしまいたい。それは消極的な自分に対する、
アクテビティからの怒りのようにも思う。
生きていたい僕が、生き生きとしていない僕を殺そうとしているのか。
生命力が生命を脅かす。でもこれは、比喩の次元の死。
この延長で、本当に死ぬこともあり得ると思うけど。

そして、人が死ぬのはやだな。
でも、死なないでくださいとは思いたくない。思ってしまうだろうが。
生きたいと思ってほしい。
なんでそんなこと思うんだろう。自分でも、そんなには思い切れないのに。
生きていることが大好きというのは、太陽のように明るくて、暖かくて。
僕はそれに憧れているんだなぁ。
憧れさせてほしい。もっと、もっと。

それはたぶん、のせられたいんだ。
のせられるのって、生きていることの醍醐味かもしれない。
誰かの生と自分の生の関係だったりするんじゃないかなぁ。
生きている人と生きている人で、生きているということで遊ぶことのようで。

死ぬことについて、そんな風に生きることと一緒に考えようとしたりするけれど、
結局のところ、わからない。経験もないし、死に触れたこともほとんどない。
自分は生きてる価値ないなぁという気持ちは拭えないが、
生きている価値はないなぁと思っている限りにおいて、生きている価値は有るかもしれない、
なんていう下らない思考遊びをしたりはする。でも、そこで、死はイメージできていない。
ほんと、何なんだろ。
死があまりに遠いことで、僕はどれほど能天気に生きることができて、
どれほどに生きるということに対して空虚で、
どれほど生きるということに集中できているんだろう。

わかることなどないのかな。

死という問題は大きすぎるし、自分の手元での経験もないのだな。

  1. 2011/02/24(木) 00:56:41|
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脱目的

今日のアルバイト。

昼の休み時間に、ぶらぶら散歩しながら、どうでもいいようなことを考えながら歩いていた。
昼休みが終わって仕事に戻っても、そういったモードから抜け出せなくて、やる気が出せなかった。

ま、やることはやってるし、いいかぁ、とか思いながら、さぼり気味で仕事。
とは言っても、ひとつの部屋で同僚と一緒に仕事をしているのだから、あからさまにはさぼれない。

変な動きとかしたいなーと思ってみても、無理。
じゃあ変なこと考えようと思ったけど、それなりに業務も進めながらは、難しかった。
それでやってみようと思ったのは、あたかも真面目に働いているかのように、
業務と関係ないことをできるだろうか、ということ。

うーん。これも難しい。
これをやると、どうしたって、やるべきことをやっちゃうから。

そこで。業務をこなすんだけど、業務の目的とは全く違う目的を添えて、こなそう、と。
文章の入力は、タイピングの練習として。
なので、コピペですればいいのに、あえて打ち込んでみる。
何故だか楽しい。

それで、思った。
仕事って、目的としてやるべきことを設定されてるけどさ 、
そう考えると(特に支配者にとって)都合がいいから、勝手に目的という幻想を作ってるだけじゃないかって。
仕事をするとき、目的に合わせた行動をしようと考えたりするけど、実は、目的に沿った行動が目的を達成するわけではないと思えた。

でも、目的が無意味なわけではない。
いや、目的と手段がごっちゃになって、両方とも目的と呼んでいるな。
手段のことを目的と呼んで、それを目的と認識して行動すると、目的は無意味なものに感じられる。

目的と手段について。
たとえば富士山に登りたいという人がいたとする。
そういった場合、恐らく多くの場合、富士山に登ることは目的ではなく手段だろう。
富士山に行ったという話を、嘘でなく出来るようになりたいのかもしれない。
ご来光が見たいのかもしれない。
苦労して何かを成し遂げるということをしたいのかもしれない。
しかし、これらもやはり、目的ではなく手段だ。
恐らく目的は、自分の内面に自発的にあらわれるものでしかあり得ない。
目的に思えることに対し、「何のために」と繰り返していけば、
大抵、自分の内側から湧き出る、言葉にできない何かのため、というところにたどり着いてしまうのではないだろうか。
それでは、目的は感動と呼ばれたりするようなものばかりか、となるが、現実の条件付けがそこに加わり、
感動へ繋がる通路作りとして自分が選べるものが目的となっていくのだろうか。

ここで、仕事で言われるような目的に戻る。
目的は、手段はなんであっても、たとえそこに向かおうとしなくても、達成されればよい。
会社内での仕事の場合、管理のために、目的へたどり着くつく道筋を、あらかじめ決めることが風習と成る。
そうなると、行為もいちいち、その目的の達成のためということになる。
しかし実のところ、目的達成のための行為を、目的達成のためにする必要など全くない。
目的達成のための行為すら、自分にとっての何らかの感動のために行えうる。

感動なんて言い方、よくないな。軽やかでない。
遊び、と言い換えよう。

仕事的な目的のあることをやらないといけなくなっても、
やらないといけないことはやらないといけないのだろうけど、
その目的のためにやらないで、やらないといけないことで遊んでしまえばいい。

社会のルールなんて、その社会の環境に合わせて出来た、その場限りで有効なものでしかない。
高尚なもののつもりでも、結局環境が変われば、原始的な環境なら、原始的なルールが出来るさ。
テクノロジーが偉いはずもなく、今の社会が偉いはずもなく、
ただ、今あるものとして、テクノロジーや今の社会に乗っ取って、やらなければいけないことが作られる。
それだけのこと。

それなら、今あるものによって自分を縛り上げるのでなく、
今あるものを使って遊ぶことだって出来るんじゃないか。

偉そうな顔しているものに従わなければ成らないようには、
世の中なってないよなぁ、きっと。

今、いるところの出来事で、あるもので、遊ぶことが、一見自由に見えないけど、自由かな。

  1. 2011/02/22(火) 22:39:50|
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デザイナーに明日はない

デザイナーに明日はない。

これは、デザイナーについて言えることなのか、もっと広く当てはまることなのかはわからない。
僕の身の回りにはデザインに関わる人が多くそういった人たちを見ていて思うことだ。

デザイナーを日本人と言い換えることも出来るだろうか。
しかし僕は、日本のこともよくらないし、日本人と外国人を比較できるほど、
外国人に興味も持っていない。

だから僕が言うことは、一般論には成れないし、普遍性を説くことも出来ない。
とある24才の日本人の気持ちだ。

思うこと。
デザイナー、もしくはそう成ろうとしている人たちが、暗い。
もしくは、自分で自分の領域を決め、そこに閉じこもり、守ろうとしている。
活動の範囲が狭く、退屈だ。

自分の状況、これから進んで行く先について語るとき、
暗くぼやくか、空論に絡めとられているか、の場合がとても多い。
暗い雰囲気の場が、暗くなくなるとき、その場は突拍子のない空論に満たされていたりする。

自分がどんなことをやって、どんな道に進んで、何を作りたいか。
それは自分の行動によって変わってくる所はたくさんあるのに、
行動するという事自体を、ネガティブに解釈しているように見える。反射的に、だ。
現象に対しても、ネガティブな解釈を結びつけ、行動からしづらさに繋がっていく。

循環が狭く、閉鎖的なのだ。
未知と繋がっていくエネルギーが、弱まっている。
未知と繋がるのには、自発性が必要だ。
作用反作用の法則のように。こちらが近づくほど、あちらも近づく。

デザインという社会性に対して、デザイナーと言う職業は閉鎖的になりすぎてしまっている。
忙しさも大きな要因だろう。今の循環から外れた循環へ飛び込む機会を作りづらい。
いろんなことが、もうよくわからねえよ、っていう世の中で、
デザインという職能は、言葉を使わずに遊んでいるように勘違いされるような職能は、
どういった風に社会と関わっているのかを示さなければ、勘違いされていく一方だろう。

デザイナーは何をするのか。
誰かの持っているイメージをビジュアル化する技術を持った人となるのか。
そんな退屈なら、つまらなくなるに決まっている。暗くなるに決まっている。

イメージの先のイメージを作り出すこと。
イメージの奥の核心に触れること。
イメージをマネージすること。
イメージを壊してしまうこと。
イメージを越えて行くこと。

こんなことを書いたら、理想論を口ばっかりで言ってら、と笑われるだろうか。

でも、口ばっかでしか言えなさそうな理想論を、
多くの人に伝わる形にして、多くの人の目に触れさせ、
現実を理想に近づけることも、デザインの社会性だろう。

これほど明日に開けたものはないじゃないか。

デザインは、この場限りの本当を表すことも出来るし、
10年バレない嘘もつける。

この場限りの、お互いの腹の中をメスで開きあうような本当よりも、
嘘みたいな理想を探りたいじゃないか。

この目に映る、嘘とか本当とか、そういうことは遥か遠く飛び越えて、この世界は広大だもの。
僕は、そこに、触れたい。

きっと、デザインという方法には、そこに繋がっていく道がある。
でも、今あるデザイナーという職能の延長だけでは、そこへはほとんどたどり着けない。

デザイナーは、デザインにたどり着けない。

僕には圧倒的に経験が足りないな。
他にもいろいろ足りないが、軽やかに、もっと、得たいの知れない渦の中に飛び込まなければ。

単純に、今、この場で、熱量を上げて楽しめなければ、明日はないよね。

  1. 2011/02/21(月) 20:00:05|
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