僕の言葉

言葉の次元にない行動に言葉での説明を求められて、手の出しようがどうしようもなくて、その反動として言葉に強くなっている。そんな風に自分を守る鎧にしてきた。 言葉は、僕の本質の裏側。 言葉が得意なのは、言葉が本質だからではなく、言葉でないものを言葉で責め立てられたので、言葉から守るために強い言葉を求め、言葉に強くなったのだよ。 言葉にはめることに慣れすぎているから、言葉から外すことが苦手になってきた。 言葉という鋳型で本質らしいものを切り抜くことはできるかもしれないが、本質それ自体はどうやってもとらえられない(はず)。 言葉から外れていこう。

  1. 2010/03/30(火) 01:12:48|
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言葉に声がつく。
声は喉を振るわせ、空気をまとい、波になる。
波は膜を伝わり、骨を揺さぶり、電気信号に変えられる。
電気信号が声を表し、声が言葉に変わる。

  1. 2010/03/26(金) 10:56:06|
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言葉とは?言語とは?

言葉とは?言語とは? 線形?思考の装置? 言葉を使わないで、考えられる? 情報が削られ言葉が残る。 “言葉にできない”と言う言葉。 言語化の意思。 以上、いつの日にか付箋紙に書いて付箋紙に貼ってあったメモ。 『木』という言葉を思い起こしてみても、とってもあいまいだ。 「具体的に、どの木だよ」と言い始めてみると、切りがなくなってくる。 針葉樹、広葉樹とわけてみたり、種類で分けてみたり、イメージでわけてみたり。 同じ種類でも一本一本じっと見てみると全然違うじゃねえかってなる。 ヤシの木のイメージは、『木』という文字のイメージにあまりそぐわないなぁとか思ったり。 『木』を具体的にどういうものかを調べて、性質を、発生を調べてみると、より細かいところがより明確に見えてくるだろう。しかし、全体像としてはよりぼやけてくると思う。(原研哉さんのいうEx-formationはこういうことかな) 僕が思うのは、言葉は言葉以外のものと一対一で対応するものじゃないということ。 言葉は言葉という固有の状態なんだ。 木を見るように、聞くように、嗅ぐように、触れるように、味わうように、『木』という言葉にしてみるんだ。 視覚的な状態。聴覚的な状態。言語的な状態。 言語のよくわからない部分のもやもやを不思議がることは、見ること、聞くことのよくわからない部分のもやもや不思議がることと同列に見られるんじゃないかなぁ。長い間言葉を扱ってきたから、その手法に慣れてるだけで。 それと、言葉は残しやすいんだな。 だから言語感以外の感覚も言語に託すのか。 目の前にものがないと、見られないし聞けないし触れないし嗅げないし味わえないから。

  1. 2010/03/26(金) 10:52:27|
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だめだこりゃ

だめだこりゃ。
堂々巡りだ。イタチごっこだ。
情報は巡っている。とても速い。
僕の興味も変わっていく。情報の巡る通りではない。
考えていることも、やっていることも、浅いところでしかない。
本当に踏み込むべきところには踏み込めていない。
痛みのある方向に出口はあるのに。

それにしてもなんだ、このイライラは。
進化的に、人間を昔から辿っていくと、イライラはどういう風に考えられる?
大したイライラじゃない。
イライラは大したことなくても、問題の核心は大変だ。
問題は情動だ。瞬発力だ。
破壊を恐れて強ばっていくのか。外はガチゴチに固まって、中身はドロドロのグチャグチャか。

”本当”に身体で切り込んでいけよ。
答えを探してちゃダメだ。
すぐに応えるんだ。

動き回りたいのに動き回れない核がある。
体を脱ぎ捨てたい。
体を脱ぎ捨てるのに近づくには、より体を使うのだ。
細胞の情動。

目玉を洗って、耳の穴かっぽじって、心はオープンに軽く、頭は油断せずに。

僕という人間は、
僕という動物は、
僕という生物は、
僕という物質は、
僕という観念は、
僕という幻想は、




どうしたって定まらない。
衝動的な情動があるのはわかる。
それならそれをある種冷静に見ているのは一体何だ?

あきらめずに、続けること。振るわせ続けること。
苦しみなどとほざいてられない。
苦しみ故に苦しみというセンサーから目を逸らしたら、本末転倒だ。



言葉はあっていい。
言葉ではとらえきれないものが限りなくあることを知っていれば。

!'m a sensor.

  1. 2010/03/25(木) 22:36:05|
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弟がフォルダを作ったことすらないらしい

弟が、パソコンでフォルダを作ったことがなかった。
やってみればできるけど、やったことはなかったみたい。

弟は家にいる時間の多くをパソコンに費やす。
それなのにフォルダを作ったことがなかったのだ。
驚いた。

僕がパソコンを使うのは、インターネットもかなりするが、集めた情報を整理して入れて、時には編集するのに使う。情報といっても、音楽や写真など。
しかし弟の場合は、集めるということをしないのだ。
僕は情報を私有しようとするけれど、弟は情報を共有のまま使って、その収集、整理、編集も共有でやっているんだろう。
パソコンはインターネットに繋がる窓で、その向こうで遊び回るのだけれど、それをこちら側に持って帰ることはあまりしないんだ。


いまの世の中は情報で溢れているし、その情報は手元に置いておかなくても手軽にとりに行けるんだ。
いままではひとつのコンピュータの内側で行われていたことも、インターネットの上でやればいい。
それが当然になっている。


思い返してみたら、僕も子どもの頃はそうだった。
友達のゲームをやるにしても、それがたまたま友達の家にあるからそこでやるけれど、それが友達の私有しているものだからなんてことは考えちゃいなかった。
グラウンドが空いていたから、グラウンドでサッカーをやったけれど、空いてる空き地でもサッカーしたし、家の前の道路でもやった。
面白いことができるところに行って、面白いことをやっただけだ。
その場所を自分らのものとして確保しようなんて考えていなかった。(たまには考えたかもしれないけど)

面白いことができる場所があったらそこに行って遊ぶ。
当たり前じゃないか。みんなそうする。
インターネットはそういう場所が見つけやすい。

自分がどうのこうのということに捕われていても自分のクビを締めるだけ。
オリジナリティー?クソくらえ。面白いところを見つけて遊ぶだけだ。



(面白いところがひとりひとり違ってきたりするから、オリジナリティーは出てくるし、そこは面白いんだけどね。)

  1. 2010/03/25(木) 14:02:26|
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