論理的だとか。

誰もが論理的に考えられる必要は無いけれど、論理的に考えられないのに論理的に考えられてると思い込んでるのはよくないよなーって思ってました。

でも、そんなことはないのね。
そんなんでは、息苦しくなってく一方かもしれない。

間違ってなんぼ。間違いも楽しめたら素敵だね。

  1. 2008/10/30(木) 16:04:44|
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反射

テーブルの上から水の入ったコップを落としてしまった時、反射には2種類あると思う。
ひとつ目は、感情を爆発させる。悲鳴を上げたりね。
もうひとつは、その事実に対処する。地面につく前につかもうとしたり、そこから飛び退いたり。

どちらが優れているとか、そういうものではないですけど。
僕の反応は、基本的に後者です。
目をそらしたくなったときは前者かな。

覆水盆に返らずに従って動いているんでしょうね。
コップが地面まで落下しあたらこぼれるし、こぼれてしまった水に対して悲鳴を上げるよりも、早く拭き取ってしまった方がいいと感じる。
もし誰かがコップを落としてしまったとして、それを叱ることよりも、同じ失敗を繰り返しにくくするにはどうしたらいいかの方が重要だと考えます。
そりゃあ、大切なものが汚れたり壊れたりした時にゃぁ、凹みますけれど。
取り返しのつくことなら、特にマイナスの感情は出てきません。
それに対して、取り返しのつかないことなら、目をつむりたがってしまうのですが。
もう、寝る!って感じ。

これを裏返してみると、人にあんまり頼りたがらないって考えられるんですよね。
コップを落としたときに悲鳴を上げる人の周りには、「なになに?」って人が集まってくるんです。
集まってきた人の中に僕みたいな人がいたら、それなりにその場をなんとかしようとしてくれるかもしれないし。
つまり、悲鳴をあげるって言うことは、人の力を借りられるってことになると思うのです。
それが嫌がられることもあると思うのですが、とにかく人が集まる。
これがすごく大きいことに思えて。
それは僕はやろうにもあまりできないことだから。
突発的なことでなくて、普段の生活から、人に助けを求めたがらないし、相談さえあまりしようとしないから。

それは自分で問題解決する能力が上がったりはするのでしょうが、人間として生きる以上、そればっかりできるようになっても寂しいだけだよなぁ。


個人の能力が高いということにも憧れているけれど、それとは全く別の、身の回りの人と関係を紡いでいくってことにも、とても憧れるのです。

  1. 2008/10/30(木) 01:43:57|
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メモ

大学の先輩と話してて、思わず僕の口から出てきた言葉。

「それは、力の対局として美があったんじゃないですか?」

鎌倉時代の戦が、肉弾戦の前に口喧嘩をしていたという話を聞いて出てきた言葉です。
その戦がどういうものであったか詳しくは聞いてないし、ポンと出てきた思いつきでしかないものなのですが、ほとんど無意識から出てきた言葉で、何となくこのことが引っかかっているのです。

過去を語る上ではなくて、現代人がどう生きるのかということに。
力に偏りすぎている現代とか、芸術とか、そういうのを考えてみる上で、参考になるのではないかな。
それと、美を語る力というものを考えてみることも必要なのではないのかな。
さらに、美の皮を剥いでそれをかぶって、騙している力のこととか。


考えが突飛すぎるし、まとまっていません。。。。

  1. 2008/10/29(水) 23:39:42|
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妄想。

サブプライム問題に対して、勝手に、今までの虚構が崩れたんだと考えています。
偽物でどんどん巨大化して、肥大していったと。
それが崩れたのは悪いだけではないのではないかと。



しかしながら、突飛な妄想なのですが、人の器を超えるほどの虚構が壊れるべきで、サブプライム問題が、その始まりであるとしたら、今の人間社会はどこまで崩壊すればいいことになるんだろう、と思ったのです。

エネルギー問題、環境問題、温暖化問題、いろいろな問題があって、人の営みよりもずっと大きな枠のうちにある問題であると思うのです。
その、人では扱いきれない力からもたらされた恩恵は計り知れないのですが、そもそも宇宙の中の地球の中で作られた種である人間としてのぼくらは、その地球に助けられてしか存在できないのはずです。
それを、あたかも人間を神の様に思い、自然の一部だということから逃れようとすると、そもそも地球で生きていく為に少しずつ発達して来た種が、地球環境の多大な変化に、瞬時に対応できるはずもなく、自らの生きる地が揺らいでしまえば、当然わたくしたちも滅びると思うのです。

自然に対して虚勢をはって、それを凌駕してきたフリをして来たぼくらの生活は、根底から崩れ去ってもおかしくはないと思うのです。
虚が多くを占める構造が壊れていく時代が来るとしたら、それが社会生活云々以前に、生き延びることが大変な時代だとしてもおかしくはないと思うのです。

人間の考えた時間の概念よりも、生命の、ひいては宇宙のリズムを考慮した社会作りができたら素敵だと思うんですよね。今の生活にも、一部はありますけれど、睡眠のサイクル90分の様な、講義の区切り方90分とか、7日という単位で週を区切るとか、僕たち人間が、そもそも生命である以前から引き継いできて、体にしみ込んでいるその感覚を、大切にしたいと思うのです。

夜は寝る、ということをもしも人間ができていたら、それだけでも温暖化とかエネルギー問題とか、問題はもっとましであったと思うのですよ。
結局は、人間通しの小競り合いとか、傲慢な自己とかによって、人は衰退していくのかもしれません。
こんな時間にこんな文章を作っている僕も、十分に罪人なのであります。

  1. 2008/10/29(水) 04:31:06|
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作るということ

本気で作品を作る時、つまり、作品作りに入り込む時、ぼくは半ば狂人になります。

人には見せられないし、本当に心許せる人でなければ、人とあった瞬間に、通常モードになってしまうでしょう。


しかしその、社会に当てはまらない活動が、生きるということの根源に迫る様に感じる。
無性生殖、有性生殖に次ぐ、あたらしい生殖体系ですらあり得るのではないだろうか。
なんて言うと、変態に思われますね。

人は、脳で考えるのです。
脳が異常なくらいに発達しているのです。
つまり、有性生殖で作られた子孫を、自分のコピーというには、精神世界の面が無視され過ぎなんだ。
細胞分裂によって自己の形を保つし(無性生殖)、子供に生を伝えていく(有性生殖)。
そして、自分の精神世界を伝えようとするのが、芸術なのかもしれない。


理屈として言いたいわけではないんです。
脳が発達して、精神世界を持ち、それを後世にも伝えることが可能になった世の中で、生命としての人が精神世界を生命として伝えていくことは、真っ当なことなのではないでしょうか。

芸術を精神世界の生殖とは言えないのでしょうか。

  1. 2008/10/27(月) 03:16:28|
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