作ってきたものとか場所とか

デザイン研究部に属して、それなりに作品ってやつを作ってきた。



作ってきたんだけれども、そのベースにあるのは、僕の作ったものは無価値なんだな。

展示があるからって理由で作ったのなら、まだ、価値はあるんだ。部を存続させるためにつながるってことでね。

でもぼくは勝手に好きで作ってきた。
だから価値はない。
何のためになるものでもないから。



それなのに僕は、デザイン研究部内で、作品についていろいろ言ってきた。
めんどくさいようなことを。
だから、めんどくさいことばっかやってごめんなさいって思ってる。
僕がいなけりゃ、僕が言いたい価値観はなかっただろうけど、その世界で今の現状よりみんな楽しくできたんだろうなってのがあるから。

僕が言う作品の価値は、僕が魂を少しばかり削るような気持ちで作ったものとかが、誰かの気持ちをふるわせることができたら、その瞬間に、価値が生まれる。
価値って枠じゃない、もっと大きな枠にあるべきものが生まれるんだ。
言い過ぎかもしれないけど、僕にとっては生きる喜びにつながるようなもの。

ただそれは、普遍的なものだし、僕の作ったのもが誰かの心にぶつかる奇跡的な”偶然”が必要になってくる。
だからやっぱり、社会的に言ったり、体系的な枠組みの中で考えたりすると、無価値なんだ。
奇跡的な偶然が起きたときだけ、飛び越えるんだけれど。


そういう訳で、その無価値なもののもつものに気付いてくれた人たちには、心から、ありがとうと言いたいし、やっぱり部全体に対しては、ごめんなさい、って思ってるんだよな。

  1. 2008/07/31(木) 22:30:42|
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大切だと思ったこと

大切だと思ったことは、ブログに書いてもいいし、メモ帳に書いてもいいし、絵に描いてもいいし、とにかくあとから見て思い出せる様に、形にして残しておく習慣をつけないと。

物忘れが激しいんだよね。

億劫がらずに形にすること。
思い出せるし、残せるし、見せられるし、まとまる。


頭の中の世界から出してやることは大切だぜ。

  1. 2008/07/30(水) 22:44:24|
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言った事

人に言ったことがよく、自分に返ってくる。
良い悪いの議論をする気はないです。


人に言うことは、人に言うくらいの立ち位置から考えていることなんだろ。
本当にそうなんだな、とか、これはちょっとすごい考えかもしれないって思っていること。
そのくらいのときにそのことはまだ、自分の中にしみ込んできてはいないんでしょう。
だから時間がたってから、自分のところにその言葉が返ってくるの。

これは口ばっかりって意味じゃなくて、言葉のそういった性質が面白いものだと思うんだ。
本当に思っていることを口に出して言って、しばらくしてから体験として自分のところにやってくる。

人に言うことは、自分にいっていることでもあるんだ。


そういう言葉は、コミュニケーションとしての言葉であるけれどもその前に、
自分との対話にも属しているんでしょう。
きっと言語の根幹に近い部分の言葉。


そこんとこがちょっと楽しい。

  1. 2008/07/30(水) 22:40:41|
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感じ方

人の話を聞いたりどこ行ったり、遊んだり、何でもいいんだけど、ものを感じる機会がある。
むしろ人生の大半はそうなんじゃないかな。

その中でさ、ものを感じることって、自分独自で感じる感じ方と、人とい一緒に感じる感じ方に分類できる。
みんなで遊んでるときは人と一緒の感じ方を半ば強制的にでもしないと、はじかれることもある。
でもそればっかだと、人と深い関係は作れない。



どっちの方がいいとか正しいとかじゃないんだよな。
どっちも面白いもん。


そこで僕が思うのは、自分の中でこの2種類の感じ方を往復して互いに影響させていく、ってことをすると、ものの感じ方が固まっちゃわないですむんじゃないかなぁ。


楽しいなぁ!って思ってて、ふとそのときに別の方向からも面白れえ!って感じが浮かぶように、面白いとか楽しいとかそういう感覚は、同じものがずっと続くものではないから、いくつかの感覚を響き合わせて、いくつもの素敵なものを重ねて持ってると、楽しいやな。

  1. 2008/07/30(水) 12:28:26|
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情報化

情報化の力はすごい。とにかくすごい。


劣化しないことと複製可能なことと一瞬にして移動可能なことが並んだ。
それにともなう負の要素は大きいけれども、この現象は冷静に把握しようとしなければ。

そこにある情報は、情報化によって逆に、そこで変換された情報以外の情報も、確実にあるということ。
情報に変換した人がいなければ、また、その素となるものを作った人がいなければ、情報に変換することはできないということ。
受け手側には情報化されたことを集めることに対して、気持ちの面であまり重量が置かれないことが多く、心ない扱いや言動を個人にゆだねることは不可能であろうこと。
不可能と思う理由は、興味を持たない人に対して興味を持たせることから始めなきゃいけないが、会いもせずにものすごくたくさんの人にそれをするのはとても困難に思うので。

発信者側は、情報を小出しにしたら、逆に知ってもらうために使うことできる。

ネットから何かを発信する場合は、何のために、どのくらいの範囲で発信したいかを考え、そのためにはどのくらいが有効か、また、火がついてしまったときにどうするかを考えておくといいかもしれない。

大前提に、それほどのものを作れることがなければできないが。。

ネットの向こう側の相手にこちら側の憤りを伝えたくても、できない。

実感がないから、悪いことをしていると言われてもやめない、やめさせない。

お金もかからない。



それにしても、情報化されたものと、そこに参加する人の量は圧倒的だよな。
本当に、量がすごい。
純粋な量のすごさの持つ力には気をつけないと。
量はそれだけで圧倒的にすごいものではあるけど、だからといって僕にとっていいものだとは限らない。
量のせいで薄っぺらくなることもあり得る。
人に時間は限られているからね。


いろいろな変化とか驚くほどの可能性を感じるけど、
求めたいのは、気持ちの震えとかそういう実感からくるものですな。


根っこのところは、世界に自分がつながろうとする今までのところと変わらない。

  1. 2008/07/30(水) 04:20:38|
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